この国の地上二七〇メートルには「ミタマ道」が走っている。ミタマ、つまり「御魂(みたま)」の道は神様やその使いが地上に降り立つことなく移動するために作られたと言う。
空を飛ぶ烏(からす)天狗(てんぐ)や道を司る道祖神(どうそじん)が協力して作ったというその道は、人の目では確認出来ず、そこを歩く何者かの姿を見ることもなかった。
ただし高いビルの屋上に立つと時折空から蹄(ひづめ)の音が聞こえたり馬車の軋む音が聞こえたりと、不思議な音を聞いた話は有名だ。その音が幻聴なのか、本当にミタマ道を通る馬車の音なのか定かではないにしても、人々にとってミタマ道があると裏付ける証拠になっていた。
太陽の旗を掲げ先進国として名を上げたこの国では科学が発展した後でも数多くの不思議な事件が各地で起きる。むしろ現代になって報告例が増えたほどだ。ネットの普及や自分の些細な出来事を感情と共に発信できる機会が増加した事などが原因かもしれない。いずれにしても検索をすれば、多種多様な霊や妖怪の目撃情報を得ることが出来た。
目撃例だけでなく、突然人が消える「神隠し」に似た事件も多発していた。心霊スポットや夜の神社に忍び込んだ事での神隠しならばまだ分かるが、都会に住んでいた人が気づいた時には見た事の無い山の中にいた、という事件を体験する人が増加したのだ。
しかし、そう言ったことが原因での不審死や怪我は著しく少ない。報道されることも少ない。それは不思議な目に遭っても、駆け付けて助けてくれる人たちがいるからだ。
彼らのおかげで人々の間で不思議な目にあったという笑い話で済んでいるのが現状だ。
所変わって関東の山奥付近にある、とある政府公認の施設「火乃原(ひのはら)護用地」では、そんな事件に巻き込まれた人を救った側の対応に日夜追われていた。
今は冬も近い冷えた夜である。
「つまり、犬さんはこの近辺の山に遭難していた人間を麓(ふもと)まで送ったと。そこまでは良いですか?」
よれよれの赤いジャージを着た女性は施設の入り口で仁王立ちしている犬に質問した。女性は三十代になったばかり程で薄れた赤の眼鏡をかけていた。首から赤い印籠を社員証と共に下げている。不思議な模様の描かれた社員証には「対霊・霊泉(れいせん)組合 総合受付部・妖対応 蛯原(えびはら)こたる」と書いてあった。
彼女が相手をしている犬はこげ茶色の毛皮であり、二本足で人間の成人以上の背丈になって立っていた。人間が着ているような黒いジャンパーを着ているため、暗闇で出会ったならば酷いなで肩の人間に会ったとしか思わないだろう。
鋭い鼻先を夜の空に向けており蛯原を睨みつけているが、その背中にある尻尾は揺れている。
犬は口を開くと高い鳴き声で蛯原の質問に答えた。
「ああ。だがヤツは電灯の下で俺の姿を見てしまってな」
「はー、お相手、倒れましたか」
「いいや、気を失うどころか走って逃げてしまった」
しょんぼりと下がった尻尾を蛯原は視界の端で確認した。
道に迷っている人間を助けたが逃げられる、という妖怪からの相談は彼女にとってよくある事だった。逃げ出せるほどの精神力を人間が持てるようになったのか、それとも本能が逃げ出すように信号を出したのかは当事者でさえ分からない。
こういった場合すぐさまネットに「どこどこの山の近くで二足歩行の犬に襲われた」という話が流れて行ってしまう。大抵は何事もないのだが、誰でも発言力がある時代ではいつ大事になるか分かったものではない。
その事を理解していた蛯原は、肩を落とした犬が次に言い出しそうな事を代わりに口にした。
「人間の記憶処理の依頼ですか? 残念ですけどうちではやってませんよ。そこらへんは人間と上手くやってくただくという決まりになっていますが」
「それはもちろん知ってる。それを頼む気もない……そうではなく、その人間が落とし物をしてな」
記憶を改ざんしてくれという話ではないと言った犬は、ジャンパーの中から四角いものを取り出した。蛯原は黒い金属光沢のするそれを受け取ると怪訝(けげん)な顔をした。
「ん? スマホですか。懐かしいですね。はあ、しかも四世代前ですね」
スマートフォンと呼ばれて固定電話の普及率を著しく下げる要因になった携帯電話だった。最近では宙に浮いて追従する新しいタイプが主流になったため、スマホを見る機会は減っていた。
「ここカメラの部分がプラスチックじゃなくてきちんとレンズで、しかも保護もされていないのが四世代前のスマホの特徴なんです。落下によるレンズ部分の故障と事故が多くてすぐに回収されてしまったんけど、当時にしてみれば挑戦的だったんですよ。 今ではここのレンズの保護の技術が上がってきれいな写真を撮れるようになったんです。いやー本当に珍しいですよ、これ」
蛯原は対応していた犬を置いてけぼりにして珍しいスマホを舐めまわすように見ている。
「スマホの世代は分からんが、頼めるか。助けた代償(だいしょう)にスマホを取られたとか言われては山の評判が落ちる」
「ああ、あの山、神社ありますしね」
山と聞いて蛯原が犬に意識を戻した。
山はこの国で生きるもの全てにとって海と同じくらいかけがえの無いものだ。山は海から来た雨を受けて、川を作り、生きるものを支え、社会を作り、海へ水を戻す。
山の恩恵を受けて生きていくには山を守っていかなくてはいけない。特に蛯原の前にいる犬のように山に根差して住んでいる者にとって、山の評判が落ちて山を荒らされるのは防ぎたいはずだ。
蛯原はポケットから調書扱いも出来る特殊なメモ帳を出すと、枠線の中にある項目に必要事項を書き込んでいく。山の名前、落とし物とそれを持ち主に届ける依頼、その際に山に対する評判のケアをすることを書きながら蛯原は犬に尋ねた。
「犬さん、名前って聞いてもいいですかね。だめだったら毛を少し切らせてもらいたいんですけど」
蛯原の少し変わった要求に犬は動じず返した。
「ああ、毛で構わないか。俺たちは祖父の代からみな同じ名前だ。毛の方が俺を探す時に都合がいい」
そう言うと犬はその丸い前足で器用に毛を一本抜き、手を出している蛯原に渡した。山に暮らす者の中には自分だけの名前を持たない者もいる。もちろん人間を除いてだが。
「あら、理由聞かなくていいんですか。えっあと二本ほどくれるんですか、ありがとうございます」
「な、一本では足りないのか? あとやるとは言ってな……分かった、分かったからそんな目で見るな。
依頼の完了の報告をする時に探すためだろう。それに、どうせお前たちは山に住む『物(もの)の怪(け)』の事を把握しておきたいのだろう。こちらもお前たちのように協力してくれる人間には協力し返すだけだ」
催促する手を引っ込めようとしない蛯原に気圧(けお)された犬は更に毛を二本抜いた。
ふすんと鼻を鳴らした犬は、もう用は済んだと言わんばかりに四つん這いになって闇に消えていった。蛯原はその逃げるように去っていった背中を見送りながら、三本の犬の毛をメモに張り付けて担当者の欄に自分の名前を書き込んだ。
「こたるさーん」
蛯原を呼ぶ高齢女性の声が聞こえる。入口からひょっこりとたっぷりとした白髪が美しい女性が現れた。蛯原と同じ受付で働く事務員の女性だ。蛯原はそんな彼女に呼ばれる用があったどうか思い出しながら返事をする。
「はーい、こたるはここですけど。あー、のっぺらぼうの七尺(ななしゃく)さんまだいらっしゃるんですか」
蛯原は七尺というお得意様の無い(・・)顔を思い浮かべながら頭の後ろを掻いた。
社員証に書いてあるように蛯原は妖対応の受付だ。他の人間であっても対応できる先程の人の言葉を話す犬の妖怪もいるが、のっぺらぼうのように目も口もない妖怪では専門的な人間が必要だ。
事務員の女性が口に手を当てて蛯原に微笑む。
「私、霊聴(れいちょう)できないからお願いね」
霊聴という技術は霊視(れいし)を耳で行うようなものだ。
霊視が「霊を見る力」であるなら霊聴は「霊の音を聞く力」であり、小さな霊や人以外から発する音を聞き取ることが出来る力だ。
素質があれば訓練で得ることが出来る力なので技術と言えるが、蛯原の場合物心ついた頃にはどんなに小さい妖怪や霊の声や音でもはっきりと聞こえていた。その一方で人間の声はあまりはっきり聞こえないと蛯原は周りの人に言っていた。
「いい加減守り紐外しましょうよ、怖くないから」
蛯原が冗談っぽく事務員の女性に言うと、いやよ、長生きしたいもの、という楽し気な笑い声が続いた。
その笑い声が奥に戻っていくのに誘われるように、蛯原は寺社に見られる門構えが特徴の施設の中に戻っていった。
ここは妖怪、幽霊など「人ならざるもの」と人の仲を取り持つために設立された、政府公認の専門機関「霊的災害対応機関・霊泉組合」の関東本部である「火乃原護用地」。山の麓にあり、湧き出す温泉の恩恵を受けて再び栄えた村に建てられた施設である。
誰も居なくなった門が一人でに閉まっていく。
締まる門の陰に白い獣の尻尾が見えた気がした。
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